SETOUCHI MINKA

瀬戸内の匠を訪ねて。~岡山県・大工職人~

これまでの人生の大半を家づくりに捧げてきた愚直で誠実な父と、その背中に追いつき追い越そうと日々の仕事に情熱を注ぐ息子。まさに“親子鷹(おやこだか)”という言葉がぴたりと当てはまる大工の親子に出会った。ふたりを見ていると、演歌でもポップスでもジャズでもフュージョンでもなく、温かくて優しいブルースの律動が、なぜか不思議なほど、お似合いだった。

<取材・写真・文/鎌田 剛史>

大工という生き方を選んだ父と息子のブルース。~大工職人/宮本 治夫さん・晃羊さん~

この道60年の老紳士には、ベレーと笑顔がよく似合う。

年季の入った日本家屋が建ち並び、古き良き日本の風情が漂う岡山県の旧街道沿いの町。かつては寺の門前町として栄えていたというこの静かな住宅街に、カーンカーンと甲高い音が響き渡っていた。はたして木を叩いているのか、削っているのか。その音はどこか耳障りがよく、なんとなくリズミカルだ。

音が聞こえてくるのは、とある住宅の改築工事の現場。一歩足を踏み入れると、自分の背丈よりもはるかに高い角材を両手でしっかりと抱え込みながら天端を一心に見つめる男性がいた。奥の部屋へとつながる出入り口に角材をはめ込もうと奮闘している。角材をガタガタとずらしたり、一度外しては再度入れ直したりと、少々手こずっているようだ。どうやらうまく収まらないらしく、角材を一旦床に置くと、手際よくカンナを片手に木口をせっせと削り始めた。

ベレー帽を小粋にかぶり、こめかみにうっすらと汗をにじませながらてきぱきと作業に精を出すのは、75歳の宮本治夫さん。大工の道一筋60年の大ベテランだ。「元気なうちは現場に立っていたいですね。この仕事が好きだからね」と目じりを下げる。その笑顔は若々しさに満ちあふれ、この上なくチャーミングだ。

治夫さんが大工を志そうと思ったのは中学生の時。自宅の改装で来ていた大工の手伝いをしたのがきっかけだ。「もともと物を作るのが好きで、まあまあ手先は器用だったわけですよ。大工さんに頼まれて作業を手伝ったら『兄ちゃん上手やな!』ってえらく褒められてね。そこから、大工になろうと思い始めて。まあ、その時の大工さんの口車にうまく乗せられただけなんかもしれんのんやけど(笑)」。

中学校を卒業すると職業訓練校に進み、建築についての知識と技術を学んだ。ある日、そこにたまたま訪れた現役の大工に見初められ、声をかけられたのだという。「ボクが実習をしているのを見て、コイツは筋があるとでも思ったんでしょうかね。『俺と一緒にやろう』と誘われまして。それをきっかけに、その親方の下で修業することになったんです」。

弟子になってからは親方の下で一生懸命働いた。朝から晩まで、寝食を共にしながら、大工仕事のノウハウを身に付けた。現場での下働きはもちろん、仕事以外でも掃除や洗濯など親方の身の回りの世話にいたるまで辛抱強く続けた。弟子入りしてから5年ほど経ったころ、治夫さんは満を持して独り立ちする。「そのころにはある程度何でも自分でできるようになっていたし、親方にも一人前として認めてもらったので。その背中を押してくれた親方の最後の弟子になりました」。

若き日の治夫さん(後列右)。大工の世界に飛び込んで以来、ただひたすらブレずに己の道を歩み続けてきた。

晃羊さんを抱いて記念撮影。息子を晃羊と名付けた理由は「漢字が左右対称で見栄えがいいとか…いまいち、はっきりと覚えていない」そうだが、自分らしく生きてほしいという親の願いはあったという。

家づくりにこの身を捧げて。大工こそが我が人生。

「大工という仕事が、ボクは根っから好きなんだろうなぁ」(治夫さん)

独立してからは、たったひとりで家づくりに精進してきた。瓦葺きや左官仕事を除いてほぼひとりでこなしたという。「今とは違って家を一棟建てるにも時間をかけていたから。年間に1棟ぐらいのペースですかね。もちろん営業だってやりましたよ。ボクも若かったですからね(笑)」。これまで治夫さん自身で手掛けた家は約40棟に上るそうだ。そんな調子なので年がら年中忙しく働き、家族との時間もあまり取れなかったと苦笑する。子どもたちが幼いころは、現場に連れていくこともあったとか。「家を出るのも朝早いし、仕事から帰ってきても次の日の準備や道具の手入れ。休みの日もしょっちゅう現場に出ていましたから。妻や娘や息子には、ちょっと寂しい思いをさせたかもしれんですね」。

大工仲間の応援にも足を運び、数多くの家づくりに携わってきた治夫さん。自身のこれまでを振り返り、「仕事漬けの人生だった」とあっけらかんと笑う。「自分ではまったく苦に思ったことはないですよ。やっぱりボクは大工という仕事が好きで仕方ないんでしょうね」。

長年の功績を買われ職業訓練校の講師も務めた。住宅業界を目指す若者を多数育成・輩出。優しい先生として評判だったそう。

築170年以上の米蔵で、古の職人たちと対峙する。

治夫さんが角材の取り付けに悪戦苦闘するその横を通り抜けると、室内の雰囲気はがらりと変わった。深みのある濃い茶色の豪壮な梁や柱、分厚い土壁、ホコリっぽくどこか懐かしく感じる香りから、この建物が相当古いものであることが分かる。所々の床板が抜かれて3階の吹き抜けになっており、見上げると一番上の天井まではかなりの高さがある。2階で作業に励む2人の大工が右へ左へと移動するたびにパラパラと木屑が落ち、細かいホコリの渦がライトに照らされてキラキラと舞い上がった。

「この建物はもともと米を蓄える蔵だったそうです。当時の棟札が出てきたんですけど、上棟が弘化2年(1845年)と記されているので、築175年ぐらいになりますね」と教えてくれたのは、この現場の棟梁を務める宮本晃羊さん。治夫さんの息子である。がっしりとした体格は華奢な治夫さんとは対照的だが、髭をたくわえた精悍な顔つきとその面影は、どことなく治夫さんに似ている。

ここには子育て世代の家族4人が入居する。別棟だった平屋と米蔵をつないで1軒の家にするという大がかりなリフォームだ。特に米蔵の方は元来住居として使用されていなかったため、構造の部分以外はほぼすべての設えを一新するという。「お施主さんは長い年月を経た米蔵の重厚な雰囲気に惹かれてここを購入されたそうです。昔ながらの雰囲気を残しつつ、現代でも何不自由なく快適に暮らせる家にしないといけないので、難しくて大変ですよ。ですが、はるか遠い昔の大工たちが建てた建造物に自分が手を入れられる機会なんて滅多にないし、どんな風に作られているのか興味津々で作業しています。現代大工の腕の見せ所ですね」。

「ちょっとだけ遠回りもしたけど、大工になるのは必然だったのかもしれません」(晃羊さん)

大工の遺伝子に誘われて、父の背中を追う息子。

「父は家にいる時も作業着のまんま。私が小さいころからずっとです。どんだけ仕事が好きなんだと(笑)。本当に真面目なんですよねぇ」。休憩中、缶コーヒーを片手に煙草を美味そうにくゆらせながら、晃羊さんはそう話した。

「私が子どものころの父は本当に怖かった。悪さをした時なんかはめちゃくちゃ叱られましたよ。父も私も剣道をしていたんですけど、竹刀でバンバン叩かれたりしてね(笑)。普段は物静かなんだけど、人として間違ったことに対しては絶対許さない厳格な人。そんな父でした」。

晃羊さんは高校卒業後、パン製造会社に就職。高校時代に情熱を注いだバレーボールのクラブチームがあり、仕事をしながら競技を継続できるという話を先輩から聞き、入社を決めたそうだ。「パンの検品やトラックに積み込む仕事でした。バレーボールが続けられるということだったんですが、勤務時間などの関係で練習に参加するのが難しく、当初の思惑は見事に外れてしまって。仕事自体にも面白味を感じることができず、結局1年ほどで辞めてしまいました」。

会社を退職した晃羊さんは職業訓練校に入ることを決意。治夫さんと同じく大工の道を歩むことを決めた。「父の血が流れているからでしょうか。僕も子どもの時から物作りが大好きで。裏山から切ってきた竹でヌンチャクを作って振り回したりもしていましたし(笑)。それに、子どもの時からずっと見つめてきた仕事熱心な父の姿にも少なからず影響されていると思います。父には『大工の仕事はきついし、お勧めはできんよ』と忠告されましたけど」。

晃羊さんも治夫さんと同様に、職業訓練校で偶然出会った親方に直接スカウトされて地元の工務店に入社。社員大工として数々の現場に立ちながら、大工仕事のイロハを学び、吸収した。「ずっと父はどこにも属さないフリーの大工で動いていて。その工務店に勤めている時、初めて現場で一緒になったんです。親子ですから最初は照れもあったし、やりにくかったですよ。ですが、父と一緒に仕事をする中で、自分が知識も技術も未熟だということを思い知らされたし、父の大工としての偉大さをあらためて知り、自分も成長していかないといけないと奮い立ちましたね」。

工務店勤めでは数々の現場を踏み、大工のスキルをめきめきと伸ばした晃羊さん。5年後には信頼する親方と工務店を離れ、ともに家づくりに従事するも親方と死別。以後は治夫さんと同様に独立し、現在は弟子の佐藤健一さんと一緒に、忙しい日々を送っている。

幼少時の晃羊さん。小さいころから運動神経に優れ、スポーツ万能で活発な少年だったという。治夫さんは休みの日も仕事に出かけ、ほとんど家にいなかったため、たまの休みに遊びに連れて行ってくれる時は本当にうれしかったという。「父と一緒に写っている写真は少ないんです。カメラを向けるのはいつも決まって父だったから。うれしそうにシャッターを押す父の姿は、今でも覚えています」と晃羊さん。

晃羊さんの現場へ治夫さんに入ってもらうこともある。治夫さんの年齢のことを考慮し、主に木材の加工・調整などの裏方的な仕事を担当するそうだが、現場を機敏に動き回るその姿は若々しい。気力・体力ともに健在だ。

一人前に成長した息子を見守り支える“パパさん”。

腕利きの大工として厚い信頼を集めている治夫さんと晃羊さん。仕事ではお互いに信頼のおけるパートナーであり、良きライバルでもある。同じ現場に立つ際には晃羊さんが棟梁を務めることが多い今では、治夫さんは木材の加工や細かい箇所の作業など裏方的な役割を担っている。その時は治夫さんも晃羊さんを「棟梁」と呼ぶ。「現場を取り仕切るのは棟梁である彼ですから、私は指示された作業をきちんとやるだけです。もう彼も立派な大工。作業の進め方などに私が口を出すこともほとんどないですよ」。穏やかに微笑みながら話す治夫さんの横で、晃羊さんが言葉を継いだ。「父の頭の中は辞書みたいな感じです。大工仕事に関することは何でも入っていて、私が聞いたことに関しては即座に答えをくれますし、もっとこうしたらいいと的確にアドバイスしてくれる。現場では本当に頼りになる存在です」。

治夫さんが難儀していた柱の取り付けに晃羊さんが加わった。互いにひざを突き合わせ、ああでもないこうでもないと意見を交わしている。「父は木についても熟知しているので助かります。使う木ごとに特性が違い、季節による伸縮などもあるので細かい調整が必要になるのですが、父がちょっと削ったりするだけでうまく収まったりするんですよね」と晃羊さんは治夫さんの磨き抜かれた勘と技に舌を巻く。何度か調整を繰り返した末に、柱はぴたりと見事にハマった。

ちなみに、晃羊さんと弟子の佐藤さんは、現場では治夫さんを「パパさん」と呼ぶそうだ。

平屋と米蔵をつなぐ開口部を支える柱の取り付けに汗を流す治夫さんと晃羊さん。接合部のほぞ穴をするどい眼光で念入りに確認しながら、細かく微調整していた。

父から息子、その弟子へ。つなぐ大工の技と心意気。

治夫さんと晃羊さんの家づくりにかける思いは共通している。それは施主それぞれの想いに寄り添い、希望通りの住まいを訥々とカタチにすることだ。自分のこだわりや嗜好を押し付けることなく、課せられた注文をカタチにするため、自身が持つ知識と技術を最大限に駆使しながら忠実に仕事を遂行する。だから「自分にとって生涯最高の出来という家は存在しない。手掛ける家すべてがナンバーワンの仕上がりでなければいけない」と治夫さんと晃羊さんは口をそろえる。

「僕らの仕事って、ある意味区切りがないというか…。もちろん家が完成したらそこでひとまず終わりなんですが、よくできたなあって、いつまでも満足にひたっている暇はないので。すぐに切り替えて、次のお施主さんが待つ現場でまた最高のパフォーマンスを発揮しないといけない。いわば、建てても建てても終わりがない。ずっといい家をつくり続けるという使命を背負っていますから。ちょっとカッコつけすぎですかね」と晃羊さんは照れ臭そうに鼻をこすった。

そんな晃羊さんの下で働く佐藤さんは「親方の指導は本当に厳しいですが、僕のことをしっかり考えてくれているし、キツい言葉にも愛があるから頑張れます。僕が親方に叱られた時なんかはパパさんがこっそりフォローしてくれたりもするのでありがたいです。僕も親方やパパさんのような立派な大工に早くなれるように努力します」と背筋をピンと伸ばした。「ケン坊は今時の青年にしては珍しいぐらい真面目な男。きっといっぱしの大工になると思いますよ」と治夫さんは大きな期待を寄せる。晃羊さんは「まあ、ちょっと物覚えが悪いのが難点だけどね」と、いたずらっぽくケタケタ笑った。

現在は弟子の佐藤健一さんとともに、工務店からの依頼を受け、新築・リフォームなどさまざまな現場を飛び回っている。佐藤さんへの指導にも熱が入る。

工務店の材料加工場では治夫さんが晃羊さんからの注文通りに木材を機械で裁断・研磨していた。木の特質を分かっていないと仕上がり具合も大きく変わってくるといい、その点に関しては晃羊さんも安心して任せられるそうだ。

技を磨く、若手も育てる、有り余る情熱。

ふたりにこれからの仕事に対する意気込みを尋ねると、治夫さんは「ボクはあと何年ぐらい現場に立てるか分からんのんですけど(笑)。まあ、必要とされるうちは続けるし、自分のやるべき仕事をしっかりとやるだけ」ときっぱり。晃羊さんは「当たり前ですが、これからもすべてのお施主さんに心から満足してもらえる家をつくり続けること。そのためには腕も磨いていかないと。それに、ケン坊や若手の大工たちに僕らがしっかりと技を受け継いでいかないといけませんね」と大きな目を輝かせていた。

晃羊さんの力強い言葉に治夫さんは「一人前の大工になりましたね」としみじみ。「よく考えてみると、父に一人前って褒められたのは、これが初めてかもしれん」と、晃羊さんはほんのちょっぴり感慨深そうにはにかんだ。

取材を終えると、別れ際に治夫さんが握手で見送ってくれた。差し出された手のひらには無数のしわが刻まれている。ぎゅっと握ると、ぶしつけではあるが75歳の老紳士であるとは思えないほど力強くたくましい。
そして何より温かく、優しかった。

なまこ壁や鉄製の窓蓋から積年の風格が漂うリフォーム現場。3人の手にかかるとはたしてどのような住まいに生まれ変わるのか。完成が楽しみだ。

宮本 治夫

温和な性格で数多くの大工仲間から頼れる先輩として慕われている。趣味を尋ねると即座に「仕事!」ときっぱり。

宮本 晃羊

「住む人にどうやって満足してもらえるか」を常に考えながら作業に当たっている。ゴルフ・サーフィン・釣りなどアウトドアのスポーツが趣味。

※文章の内容、写真は2019年の取材当時のものです。

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